相談員をしていると、「自分が何をしたいのかわからない」といった悩みを伺うことは少なくありません。
この種の悩みは、周囲の人たちにわかってもらえないことも多いようです。
相談にきた方は、周囲の人々に「自分のことなのにわからないのか」とか、「自分がわからないのに、他の人がわかるわけないでしょう」と言われてしまうケースが大半です。
そう言われ続けてしまうと、「自分のやりたいことがわからないなんて、おかしいやつなのかもしれない」と思い込んでしまいます。
やっと臨床心理士のところにきても、「自分が悪いんですけど」と申し訳なさそうに切り出して、やっとの思いで悩みを打ち明けてきます。
「自分が何をしたいのかわからない」と。
隠れ優等生が陥るジレンマ
自分のやりたいことがわからない、というかたがたは、性根は真面目な人が多いように感じます。
そもそもわたしたちは、「人に迷惑をかけるな」「自己中はよくない」と教えられて育ってきています。
自分の考えが強くないひとは、協調性があるひとです。
協調性のある人は、家庭、学校、仲間関係、職場関係などいかなる場所においても重宝されます、集団には、協調性と自制心のある人々が必要だからです。
そのため、ある人々はしばしば、「自分がしたいこと」を考えることにブレーキをかけることが、必要以上にうまくなっています。
そのため、いざ「どうしたいの」と問われると、思考にブレーキがかかり、「お任せします」「どうするのがいいと思いますか」と返答するように鍛えられてきているのです。
進路選択、職業選択、転職、友人選びにパートナーとの付き合い方…。
人生の中で「自分の意見を求められること」が時々あります。
そんなとき、急に自己責任で人生の選択を迫られても、「人に迷惑をかけるな」「自己中はよくない」といった、普段は大切な相棒だった考え方が、いつも通りに、私たちの思考を押さえ込んでしまうのです。
あなたは自分の考えを、長い間心に壁を作って閉じ込めてきました。
その方がうまくいったからです。
しかし、一方で、一番大事な節目節目のタイミングで、人生は残酷にも「あなたは何がしたいの」と問いかけてくるのです。
考えても考えても、心配なこと、不安なことばかり浮かんできます。
- あれをやってみたいけど、こんな非現実的なことを考えるなんて自分は考えが足りない…。
- こんな希望を持つには、分不相応だ…。
- みんなはもう決めているのに、自分だけ決められない…。
でも、私は何をしたいんだろう。
困ってしまいますね、
「自分が何をしたいのかわからない」という状態からどのようにすれば脱出できるのでしょう。
ここでは、アドラー心理学の「目的論」の力を借りて、「自分が何をしたいのかわからない」という状態を分析してみましょう。
「何をしたいのかわからない」ままでいることを選択肢の一つとして考える
目的論では「すべての行動には目的がある」という考え方をします。
なので、まず今のあなたの目的は何か考えてみましょう。
「私は何をしたいのかわからないから、まだ目的の前の段階ですよ」と思うかもしれません。
しかし、アドラー心理学で唱えられる目的論においては、例えば、「何もしたくない」という場合でも「何もしたくないと考えている、または、何もしたくないと自分に言い聞かせたり、他者に『私は何もしたくないんです』と思わせようとしている」とみなします。
その「何もしたくない」目的を考えるのです。
行動の目的を考えるときには、行動の結果何が起きているのかに注目します、ここがポイントです。
その行動の結果として起きていることが得たいから、行動するのです。
例えば、犬が吠えた結果、餌をもらえたとします。
その場合、吠えるという行動の目的は、エサをもらうことである、とみなします。
そして「お腹が空いたんだな」と飼い主に思わせることも目的になります。
さあ、いまあなたは「自分が何をしたいのかわからない」と思うことで、どのような結果が起きているでしょうか。
未来に対して前向きに動けなくなっていますか。
それでは、動けなくなることがその思考の目的となります。
「進学したいのか就職したいのかわからない」という状態にいるあなたは、自分が何をしたいのかわからずにいれば、就職や進学に向けて動き出さずに済みます。
「勉強」と「就職活動」に取り組まずに済みます。
「家を出たい」と言って、反対を受けたり責められることもありません。
したいことがないから、どの方面にも迷惑をかけることがないのです。
挑戦し、失敗して、恥をかくこともありません。
「何もしないこと」で、何か行動を起こすことで生じるリスクを遠ざけられますよね。
つまり「自分が何をしたいのかわからない」という状態は、何がしたいかわかってしまうよりも、平穏で安全な状態でありうるのです。
自分がしたいことを、みんなが応援してくれたらそれに越したことはありません。
しかし、大抵の場合、自分が望みを持つことは、ある程度批判されることとセットになっています。
冒頭で述べたように、私たちは幼少期から「自分よりも家族、クラス、社会を優先させなさい」と教わってきています。
自分の考えを持たないことは、平和国家の構成員としての美徳でもあるのです。
自分が何をしたいのかわからない間は、自分勝手だと批判される不安を感じることはないのです。
でも、大抵の場合、あなたはじわじわと「決めなければいけないのに決められない」という不安にさいなまれていきます。
しかし、不安を避けようとすれば避けようとするほど、決断に伴う不安が思考の壁となり、あなたの行動を止めてしまうのです。
いずれタイムアップになり、あなたは動き出すことに失敗するでしょう。
一方で、批判を受ける覚悟があれば、自分が何をしたいのか考え出し、何かに向かって動き出すことができるかもしれません。
ただ、それはうまくいくかもしれませんが、失敗するかもしれません。
その挑戦の失敗は、タイムアップよりも、よりひどくあなたを傷つけるかもしれません。
「やりたいことを探し始める」ことは、実は大仕事なのです。
迷う材料にして良いのは、『自分で選べること』だけ
そして、アドラーが『人の悩みの全ては対人関係の悩みである』と言っているように、行き詰まって動けなくなっている人々は大抵の場合、『人からどう評価されるか』に囚われています。
しかし、私たちが自由に選べるのは自分の行動だけです。
「他者がどう思うか」をえらぶことはできません。
「どの選択が一番正しいか」を考えるときに、どう思われるかを理由にすると行き詰まってしまうのは、このためです。
日本一の野球選手は、海外リーグに挑戦しても「日本野球を盛り上げて欲しかった」と叩かれ、チームに残留しても「世界に挑戦して欲しかった」と残念がられ、国内の別のチームに移籍しても「裏切り者」と誰かに叩かれるのです。
誰にも嫌な思いをさせずに選択ができればそれに越したことはありません。
しかしそんなことは不可能ですから、自分の下した決断に対して責任を持ち、もし誰かに迷惑をかけることがあればしっかりフォローをしていく、それで十分ではありませんか。
さあ「タイムアップによる失敗」か、「挑戦したうえでの失敗」のどちらを選ぶかは、あなたの自由です。
どちらかを選び取る必要があります、このままタイムアップでいいという方は、ほとんどいないはずです。
まとめ
「自分が何をしたいのかわからない」という方は、誰にも迷惑をかけたくない方なのかもしれません。
そのように気遣いが出来る方々にこそ、「やりたいこと」に飛び込んでもらい、やりたいことをやりながら、その協調性と気遣いを発揮していただきたいと切に願います。
「自分のしたいことがわからないなんて、おかしいんじゃないか」などと口走る方々は、集団の中で協調性を発揮する人々に支えられていることに気づいていない人だったりもします。
かつて、やりたいことが決められなかったあなたの決断と歩む道は、どんな決断であろうと、結果的には十分に良いものになるでしょう。
今もすでに「この記事を読む」という決断を下しています、その決断によって得たかったものは、得られたでしょうか。
なにも決めずに過ごせる時間はそう多くありません、もう一踏ん張り、「誰か」ではなく「自分」の本音と向き合ってみませんか。