幸せになりたいというのは、誰でももっている願い。
昔から幸福をテーマにさまざまな著書が書かれてきました。ここでは世界三大幸福論といわれるラッセル、アラン、ヒルティの幸福論をご紹介します。
幸福になるにはどうすればいいのでしょうか。そんな当たり前のようで難しい問いに答える3冊を読み比べてみましょう。
ラッセルの幸福論
幸福論と題した本の中でも、とりわけ面白いのがバートランド・ラッセルの幸福論です。ラッセルはイギリスの思想家で、数学、論理学の分野でも大活躍しました。
しかし、ラッセルを特別な思想家にしているのは、なんといってもその行動力です。
ラッセルは、研究室にこもって沈思黙考するタイプの思想家ではありませんでした。実際に社会運動に参加し、行動でその思想を示したのです。
そんな行動派の思想家・ラッセルが書いた幸福論はとてもわかりやすく、今すぐにでも実行したくなるような実践的なものです。「幸福論」は、第一部と第二部にわかれています。
第一部は「不幸の原因」と題して、競争や退屈、被害妄想といった人を不幸にする諸々の事柄について語っています。続く第二部では「幸福をもたらすもの」について語られます。
その語り口は簡潔にして論理的、それでいて人生の達人らしい余裕に満ちています。
たとえば被害妄想については、「確率の理論によれば、ある特定の社会に住んでいる異なる人びとは、一生の間にほぼ同じ量のひどい仕打ちを受けるはずである」つまり自分だけが特別ひどい目にあっているという考えは間違っていると、専門分野に託してユーモラスに語っています。
そのまま読んでも面白い言葉ですが、ラッセルが確率論で名声を築いた数学者であることを知っているとより楽しくなります。ラッセルによれば、幸福になるために必要なのは「情熱」です。
いつもワクワクしていること、外界に好奇心というアンテナを突きだしていることこそがラッセルの考える幸福の源泉でした。自身情熱の人だったラッセルにふさわしい考え方です。
ラッセルは98歳という驚きの長寿をまっとうしましたが、老後の退屈とは生涯無縁でした。
女性解放運動や核兵器廃絶運動に積極的に参加、80歳で4度めの結婚をして、87歳にしてデモに参加して逮捕拘禁されるなど、最後まで波乱万丈のエネルギッシュな人生を送ったのです。
「もう歳だから……」なんて言葉は、彼には通用しません。超高齢化社会に生きるわたしたちも、ラッセルにならって最後まで実り多い人生を送るべきではないでしょうか。ラッセルの幸福論は、実感に満ちています。
前書きで著者がいっている通り、本書にはすべて自身の経験が活かされています。それは自ら積極的に動いて人生の試行錯誤をくりかえし、幸福を掴み取った著者だからこそいえる珠玉の言葉なのです。
ラッセルの幸福論は、人生を高みから見下ろすような机上の空論ではありません。堅苦しい道徳論や人生訓でもありません。人生でいちばん大切なのは、楽しむこと。
本書は、地位や世間体に縛られることなく自由奔放に楽しみを追求したラッセルが教えてくれる、いい意味で「欲張り」な人生を送るための極意なのです。
アランの幸福論
迷いも何も吹き飛ばすようなエネルギーにあふれたラッセルの幸福論から、時代も土地も少しだけ離れた1928年のフランス。ここにアランの「幸福についてのプロポ」が生まれます。
日本でのタイトルを「幸福論」というこの小さな書物は、新聞の日曜版に連載されていたコラムをまとめる形で出版されました。プロポとは造語で、ごく短いエッセイのこと。
哲学断章ともいわれます。わずか数ページのプロポ93編で構成されるアランの幸福論は、穏やかなユーモアと時折チクリと刺さるような皮肉の棘を併せ持つ不思議な本です。
著者のアランは、長年リセ(日本でいう高校)で哲学を教えてきた教師で、教え子の中にはシモーヌ・ヴェイユもいます。のちにアランの伝記を書いた教え子で評論家のアンドレ・モーロワは、アランのことを「現代のソクラテス」と表現しました。
なるほど、「幸福論」にあらわれる口調はユーモアにあふれていながらときに厳しく、偽善を追求するのに容赦しないところなどもソクラテスそっくりです。
授業に臨む際もこの調子であったのなら、ソクラテスに例えられるのもよくわかります。面白いことに、アランの幸福論は心と体の両面にわたっています。
たとえば「心が健康にふさわしい動作をすること、それが健康のしるしである」という一文は、「病は気から」ではありませんが、気のもちようが身体の健康にも影響するとの見解を示しています。
こんなところにも、生徒の心身の健康を願う教師の心が反映されているのかもしれません。アランは自分の考えを押し付けるような言い方は決してせず、わかりやすい言葉で人生を語っています。
アランによれば、幸福になるための処方箋は不平不満をいわないこと。それは自分だけではなく、周りの人にも不幸を招くことになってしまいます。不幸は向こうから勝手にやってくるものではなく、自分の態度によって呼び寄せてしまうものなのです。
だから、不平不満をいう人のところには不幸がやってくることになります。いっぽう幸福も、待っていれば来てくれるものではありません。
アランの言葉によれば「ただドアを開いて幸福が入れるようにしているだけでは、入ってくるのは悲しみだけである」ということなのです。そしてまた、不幸と同じように幸福も周りに影響を及ぼします。
「われわれが自分を愛する人たちのためになすことができる最善のことは、自分が幸福になることである」と、アランはいいます。
幸福は、自然に分け与えることができます。自分が幸福になるように努力することで、周りにも幸福が広がり、連鎖していく、というのがアラン流幸福の真骨頂です。
アランの幸福論はまさしく、人生に悩んでいる生徒の肩を軽く叩いて、先生が語ってくれる話のような趣。誰にでも無理なく読める、明快な名言に満ちています。フランスらしい小粋なエスプリにあふれた、小さな宝物のような1冊です。
ヒルティの幸福論
もしかしたら、ヒルティの幸福論はちょっと難しいと感じる方がいるかもしれません。
ヒルティの幸福論は、普遍的なものというよりは特定の宗教によっています。そのため、キリスト教になじみのないわたしたちにはピンとこないものがあります。
とはいえ、幸せを求める気持ちは誰しも変わりません。聖書からの引用が多いため、解説が必要になる場面も多々ありますが、全体のトーンは落ち着いていて静かな気持ちで読み進められます。
宗教に幸福を求めるということは、わたしたち日本人にはあまりなじみのないことと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。お寺や神社にお賽銭を投げて願いごとをするとき、そこには幸福を願う気持ちがあります。
たとえ信じる宗教が違っても、それは表面的な違いに過ぎないのです。わたしたちは普通、自由イコール幸福と考えがちですが、ヒルティはむしろ宗教的な教えを守り自ら節制することで幸福になろうとしました。
そこに本書を特別なものにしている、何にも代えがたい美しさがあります。ヒルティはスイスの法律家です。国法、国際法については大学で教鞭をとるほどの法のスペシャリストでした。
弁護士、代議士、裁判長まで務めたことがあり、法律関係の著書も多く著しています。ほかの2冊の著者と違い、ヒルティは哲学者ではありません。
本業は政治家であり、わたしたちの大半と同じく、学生として哲学を学んだことがある、あるいは趣味で哲学書を読んでいるといった立場なのです。だからこそ、ほかの誰とも違う独創的な幸福論を書くことができたのでしょう。
ヒルティが好んで引用する古代ローマの思想家マルクス・アウレリウスも、哲学者ではなく政治家でした。
マルクス・アウレリウスの「自省録」とヒルティの「幸福論」とがともに人生の指標として好まれるのは、決して偶然ではありません。ストア派の哲学の基礎となる「節制」という要素を、ヒルティの幸福論ももっています。
そのことが、この2つの思想が世紀を超えて愛される理由なのでしょう。
まとめ
それぞれ味わいの違う3冊の幸福論の特徴を、著者の横顔とともに簡単にご紹介しました。
幸福という、人それぞれバラバラな性質のものをいかに表現するかは、著者の人となりにかかっているといっても過言ではありません。ここに挙げた「世界三大幸福論」は、どれも著者の性格を反映して個性的。
しかも個人の意見でありながら、万人に受け入れられる普遍性をもつという点についてはさすがというしかありません。
常に自信満々、積極的な人生を楽しむのに必要な勇気をくれるラッセルの幸福論。
諭すように優しくユーモラスに、どこにでもあるようで実は貴重な小さな幸せのコツを教えてくれるアランの幸福論。自分に厳しく謙虚に生きることをすすめて静かな感動を呼ぶヒルティの幸福論。
あなたの心には、どの幸福論が響きましたか?自分なりの幸せを探す手助けに、ぜひお役立てください。