「性善説では犯罪はなくならない」なんて言葉をよく聞きますね。
でも実は、性善説は単なる「お人よし」という意味ではありません。
そこにはただの楽観論よりもっと深あい意味があるのです。
性善説とは、そして性悪説とは本当はどういう意味なのでしょうか?
性善説・性悪説が生まれたのは、紀元前の中国。
ここでは中国の思想史から、人間の本質を議論する「性論」を取り上げ、解説します。
性善説・性悪説の本当の意味を知り、その奥深い思想に触れてみましょう。
性論とは
人間の本質は「善」であるのか、「悪」であるのか、これを論じることを性論(または本性論)といいます。
性論は東洋思想独特の考え方です。
西洋哲学の中にも、アリストテレスなど、人の本性を論じた哲学者がいないわけではありませんが、それほど目立ったものではありませんでした。
キリスト教社会では人間は神の被造物であり、その本性を論じるのは、人間のすべきことではなかったのです。
イギリスの思想家ヒュームは「人間本性論」というタイトルの著書を著しましたが、彼は基本的に無神論者でした。
性善説・性悪説は、キリスト教の圏外にいるヒューム同様、人間を「作られたもの」ではなく単に「(なんとなく)発生したもの」と考える東洋思想ならではのものだったのです。
被造物という意識を最初からもたないだけに、性論においては、人間の本質についてとても自由な考えが育つことになりました。
それを次項から具体的にみていきましょう。
性善説
「人の本性は善である」とする性善説は、中国諸子百家の1人である孟子から始まりました。
諸子百家とは、紀元前6世紀から3世紀にかけて中国で発生した諸学派をまとめていう言葉です。
中国の思想がもっとも活発だった諸子百家の時代は、性善説のほかにも多くの思想を生みました。
その流れは時代を下り、やがて朱子学へとたどり着きます。
朱子は性善説をさらに進めて、性即理という説を唱えました。
どちらも、人の本性を善としながらその問題点を考える思想です。
孟子
儒学の流れをひき、諸子百家を代表する思想家である孟子。
彼が唱えたのが有名な性善説です。
儒学は孔子が開いた学派で、礼節を大切にするのが特徴です。
中国のみならず、わが国にも大きな影響を与えた儒学は、東洋思想の中でもひときわ高い位置を占めています。
孟子はこの儒学の思想を推し進めて、性善説を提唱しました。
人には生まれつき人と助け合う善の心が備わっている、というのが性善説の主張です。
たとえば、もし子どもが井戸に落ちそうになっているのを見たら、誰でもとっさに助けようとします。
そこには理由はありません。
利益が得られるかどうか計算してから助けようと決めるわけではなく、とっさに駆け寄ってしまうのが人間です。
孟子はそれを惻隠の情と呼びます。
惻隠の情は、人の心にもともと備わった善の要素。
人であれば誰もがこの惻隠の情(善い心)をもっています。
ではなぜ、世の中には善い人ばかりでなく悪い人もいるのでしょうか?
それは、誰もがもっているはずの善い心も、意識してきちんと育てなければ発揮できないからです。
人間はさまざまな欲もまた本性としてもっており、そのため本来もっている善の要素は簡単に覆い隠されてしまいます。
つまり孟子によれば悪人は「善の心をもたない人」ではなく「(もともともっている)善の心がまっすぐ育たなかった人」なのです。
ここで孟子が重要視する善のファクターが「仁」です。
そもそも孟子が属する儒学の思想は、自らの内なる「仁」と外側に向ける「礼」とで成り立っています。
孟子はこの「仁」のほうに着目しました。
仁とは、西洋哲学風の言い方でいえば道徳(モラル)のようなもの。
仁を常に意識することで、もともともっている善の要素をまっすぐ育てることができる、と孟子は考えました。
善の心が備わっているといっても、それはいわば人という建物の「基礎」の部分。
その基礎を活かして頑丈で立派な建物を建てられるかどうかは、個人の意識にかかっているのです。
このように、性善説は「人間はもともと善いものだから、何もしなくても世間はよくなるよ」というお人よしの楽観論ではありません。
人間は放っておけば悪に流れるものである、としたうえで、それでも人が本来もっている善の力を引き出し高める方法を示したものが、孟子の性善説なのです。
朱子
朱子は孟子よりもかなり後、12世紀ごろの人です。
諸子百家から引き継がれた思想を高め、性即理という言葉を作り出しました。
性とは本性のこと。
性をすなわち「理」とする考えが「性即理」です。
理とは聞きなれない言葉ですが、これは「道理」という言葉を思い浮かべると少しわかりやすくなるでしょう。
理は「ことわり」とも読みます。
つまり天が定めた一種のルールのことです。
朱子の考える世界では、すべてのものは「気」と「理」からできています。
「理」という、万物のもとのようなものがあり、そこに「気」が集まって具体的な形をもった個物になるという考え方です。
すべてのものが理という天の定めからできているということは、つまり人間を含むすべてのものがその中心に「理」をもっているということです。
ここから「理」は人間の本性ということができます。
これが「性(本性)すなわち理」ということです。
「性善説」ならぬ「性理説」といったところでしょうか。
ところで、理は天から授けられたものです。
だから悪いものではありえない、絶対的に善いものである、という考えから、性即理は性善説に分類されています。
ここでも孟子の性善説と同じく「それでは理屈上世の中には善い人しかいないということになるのでは?」という疑問が生まれます。
朱子は、実際にそうなっていない理由を「気」のせいであると説明します。
「気」は「理」とともに万物を作っているもの。
ところが「気」はフワフワとして流されやすいものなので、油断するとすぐに欲望に負けて悪い方へと流れてしまいます。
これをしっかりつなぎとめるのが「理」です。
孟子が「仁」を意識することで人間の善性を伸ばそうと考えたのと同様に、朱子は「理」で「気」を制御すると考えました。
どちらも、人の善性を否定せず伸ばそうとする考え方です。
性悪説
性善説に対して、人の本性を悪であるとするのが性悪説です。
性悪説は、性善説を否定するというちょっとネガティブなきっかけで生まれました。
議論をきっかけに2つの対立する学説が生まれるというのは、諸子百家の世界では珍しいことではありません。
諸子百家は「諸々の子(先生)が作った百の家(学派)」という意味。
もちろん本当にぴったり百の学派があったというわけではありませんが、たくさんの学派が林立していた時代、という意味です。
人数が多いだけに学派間の争いも多く、伝統的にほかの学派を批判する傾向にあります。
こういったディベートによって諸子百家の思想はより高められたのです。
荀子
荀子は3世紀ごろの人で、性善説の孟子とはほぼ同時代人。
同時代とはいえ、その生涯は孟子の没年と荀子の生年がほんの少し重なっているだけという、とても微妙な差です。
一世代の差がまったく正反対の考え方を生むというのも、諸子百家の面白いところです。
荀子もまた、孟子と同じ儒学に属する思想家です。
同じ儒学という学派を学びながら、どうして2人は性善説と性悪説というまったく違う方向へ行ってしまったのでしょうか?
性悪説は、人間の本性は悪であるというわかりやすい思想です。
そもそも人間は、いいことよりも悪いことに敏感なものです。
現代でも世間話で「世の中悪くなる一方だね~」なんて言ったりしますよね。
性悪説は、感情として性善説よりも納得しやすいものです。
といっても、諸子百家の中でも飛び抜けた論理性をもつロジカリスト・荀子のことですから理屈抜きで自説を唱えたりはしません。
その根拠として挙げられているのが、孟子の性善説。
「本当に人の本性が善であれば、なぜ仁や礼が必要なのか。
(孟子の意見のように)そういったもので人を縛らなければいけないということこそ、人の本性が実際には悪であることの証明ではないか」というのが荀子の言い分。
しかし、性悪説も性善説と同じ落とし穴をもっています。
本性が悪であれば世には悪人しかいないはずですが、幸いなことに今現在、世の中は悪人しかいない状況にはなっていません。
それでは、本性悪であるはずの人間が善人として周囲とうまくやっているのには、どういったわけがあるのでしょうか。
ここで荀子が持ち出すのが「礼」です。
孟子の説では、人を善い方向に導くためには「仁」が不可欠でした。
同じ儒学に属する荀子が、性悪説の柱に選んだのが「礼」です。
礼は、儒学の主軸になる考え方のひとつ。
互いに心配りを欠かさず礼儀にのっとった行動をとることで、人の本来の悪はおさえられると荀子は考えました。
荀子の思想の特別なところは、モラルが後天的に与えられるものである、と考えた点です。
これは東洋思想ではとても珍しい考え方です。
また、まず反論から始めて自説の正当性を主張する技術は、西洋哲学の弁論術に通じるものがあります。
本性論とは別の意味でも興味をかきたてられるのが荀子の性悪論の魅力です。
韓非子
荀子の弟子が韓非子です。
微妙な重なり具合の孟子&荀子とは違い、がっつり直弟子なので考え方も師弟同じく性悪説に寄っています。
韓非子は春秋戦国時代の末期に生まれ、秦の成立後は始皇帝に仕えました。
そこで有名な「法治主義」が生まれます。
法治主義とは、性悪説に立ち、人は法律という成文化されたルールに従うことで互いに協力してうまくやっていけると主張する考え方です。
群雄割拠の春秋戦国時代が終わり、秦という統一国家が生まれたことが、この思想の出発点とも考えられます。
言葉も習慣も違う小さな国の国民が、ひとつの大きな国の国民としてまとまろうとしているときに、「仁」でも「礼」でもなく、人の合意によってはっきりと定められた「法」という新しいモラルが必要とされたのです。
しかし、すべての人がもつ本性的なものではなく一部の人が決めた法というルールを柱にした法治主義は、人間にとって両刃の剣でした。
それを暗示するかのように、韓非子は讒言のために獄死し、秦という国家もまた短命に終わりました。
法で人の悪性をおさえ、理想の社会を作るという韓非子の考えは、それ自体が悪だったのでしょうか?
それとも、秦という国家が法治主義を運用するにはあまりにも未熟だったのでしょうか?
それは今もわかりません。
韓非子の性悪説は、諸子百家という百花繚乱の時代の終わりに咲いた仇花だったのかもしれません。
まとめ
性善説と性悪説を、ポイントをしぼってご紹介しました。
中国諸子百家は長い年月をかけて発展してきた東洋思想の精髄です。
本性論についても、ここではご紹介しきれなかった興味深い学説がまだまだたくさんあります。
興味のある方はぜひ、調べてみてください。
個性豊かな諸子百家の思想は、善悪どちらの意見もとても魅力的。
スケールの大きな大陸の思想に触れることで、人間が一回り大きくなること間違いなしです。