実存哲学とは?実存主義の意味を分かりやすく解説。

実存哲学はとても幅の広いジャンルです。

実存という汎用性の高いものを扱うため、解釈もひとによってさまざま。

たとえば、同じ実存主義の哲学者でも、サルトルの哲学とヤスパースの哲学はまったく違います。

こんなにも幅の広い実存哲学をとらえるには、いったい何を手掛かりにすればよいのでしょうか。

ポイントをおさえて、要領よく理解しましょう。

実存とは

そもそも「実存」とはどういう意味なのでしょうか。

頻繁に出てくる割にはどうも実体がハッキリしない、この言葉の解明から始めてみましょう。

日本語の実存は「現実存在」の略だといわれています。

原語で言えば、「Existenz」(ドイツ語)。

ドイツ語には「存在」を意味する「sein」(英語のbeです)という日常語がすでにあるため、実存のほうは特別な意味での「存在」として使い分ける必要があったのです。

しかし、原語にそんな事情があるのはわかっても、日本語として見る場合これはかなりわかりにくい表現です。

「存在」と「実存」の違いといわれても、なんだかピンときませんよね。

実存は、存在と考えるとわかりやすくなります。

けれども、それは実存という言葉のすべてを語ってはいません。

わたしたちがいま、ここに存在するということ、それが実存です。

そこにただ「存在」というだけではない意味があります。

わたしたちの在り方に深くかかわっている「存在」という意味で、「実存」なのです。

なかなかややこしいところですが、とりあえず「実存は、存在という意味に近いけれどもそれよりもちょっと深い意味をもつ言葉」と大きくとらえておき、さらに深く実存主義の内容を知ったところで精密な意味を考えていくのがよいでしょう。

ここでは、こんな広い意味をもつ「実存」だからこそ「実存主義」もまたさまざまなバリエーションをもつことになった、と考えておきます。

まず最初に存在がある

実存主義は、かなり大きくいうと二元論です。

二元論とは、世界を「目に見えるもの」と「目に見えないけど、目に見えるものすべてにかかわるもの」にわけて考えることです。

二元論は、かなり昔から存在していました。

代表的なものは、プラトンの「イデア論」です。

プラトンは、世界のあらゆるものには「イデア」があると考えました。

イデアはそのものをものたらしめている観念的なものです。

たとえば、人は芸術作品を見て「美しい」と感じます。

自然が作り上げた景観を見ても「美しい」と感じます。

似ていないふたつのものをどちらも「美しい」と感じるのは、そのふたつのどちらにも美しいという観念(イデア)があるからだとプラトンは提唱しました。

わたしたちの目に見えている世界(実存)はかりそめのもので、その裏側には、永遠に変わらないイデアの世界(本質)があるのです。

こういった、世界を「現実的なもの」と「それを超えた非現実的な(多くは神秘的な)もの」にわける考え方が二元論です。

二元論は哲学の主流のひとつで、この立場をとる哲学者はたくさんいます。

人間を「肉体」と「精神」にわけたデカルトも二元論者のひとりです。

この「ふたつの世界」に対して、どのような態度をとるかが実存主義を読み解くカギです。

実存主義を代表する思想家サルトルは「実存は本質に先立つ」といいました。

「本質」とは、実存に比べるとさほど難しい印象ではありませんが、これも実は見た目より深い意味をもっています。

前項では「実在は現実存在の略」とご説明しましたが、その言い方でいうと「本質」はさしづめ「本質存在」といったところ。

どちらも、存在の謎を解くための用語なのです。

主体的な存在を示す「実存」と違い、「本質」は、その名前の通り「もともと備わっているもの」を意味します。

かなり大ざっぱなたとえですが、実存は「存在する」、本質は「存在させられている」といえばわかりやすいかもしれません。

中世スコラ派のトマス・アクィナスは、この実存と本質の関係性について「本質として神から与えられた存在が実存(この世界での個人)である」と考えています。

これとは逆に、実存主義の立場では「実存は本質に先立つ」とします。

わたしという実存が世界を知覚するから世界は存在するのか、世界の中にいるからこそ自分は存在しているのか。前者の立場をとるのが実存主義です。

実存は自分だけのもの

それでは、基礎をおさえたところで歴史を追って実存主義をみてみましょう。

最初に実存主義という名前を冠されたのは、デンマークの思想家キルケゴールです。

キルケゴールは19世紀の人。

当時のヨーロッパは産業革命を経験し、科学技術が飛躍的に発展していた時期です。

ドイツ観念論など多くの思想家が世界を科学的客観的にとらえようとしていた中で、キルケゴールはあえて「実存=自分の存在」を思想の中心におきました。

それは、当時としてはとても新しい考え方でした。

それまでの哲学は、ものごとを外側から見て客観的に考える自然科学的なスタンスか、すべてのものを天や神から与えられたものとしてとらえる本質優先の宗教哲学的なスタンスかのどちらかでした。

しかしキルケゴールは、実存(目的はなく、まず存在しているもの)という能動的なものをもっとも重要と考えました。

「わたし」という実存が主役の世界では、社会的な権威が決める「善悪」には意味がありません。

人は大多数の「常識」によることなく、自分だけの真理を追究することができるのです。

キルケゴールは、幸福とはいえない彼の人生の中で「人と違ってもいい、わたしだけの真理」を探し続けました。

絶望というネガティブなものをテーマにして、絶望を乗り越えて生きるためにはどうすればいいかを探った著書「死に至る病」は、タイトルに反して前向きな名著です。

世界より自分

20世紀になると、実存主義はまた違う意味をもってきます。

ふたつの大戦を経験した20世紀は「人間」について深く考えさせられた世紀。

サルトル、ヤスパース、ハイデガーといった思想家がこの時代に現れました。

とくに有名なのはフランスの思想家サルトルです。

社会活動家としても知られたサルトルは、自らの思想を小説や戯曲など多彩な方法で表現しました。

サルトルの実存主義は、自由の思想です。

有名なペーパーナイフのたとえをご紹介しましょう。

これはサルトルの思想をわかりやすく示したものです。

ペーパーナイフは「紙を切る」という目的(本質)のもとに作られました。

でも、人間はそういったものではありません。

わたしたちは目的(本質)があるから存在するのではなく、まず存在して、それから生きる目的(本質)を探していくのです。

人間は目的があるから生まれた(目的をもった誰かによって作られた)という考え方が強かった近代以前とはまったく違う考え方です。

人間は、まず実存を備えたものです。

「実存は本質に先立つ」とは、人間はどんな本質も最初から決められてはおらず、どのような存在にもなれるという無限の可能性をもったものであるという思想を意味しています。

だから、サルトルの哲学は自由の哲学といわれているのです。

主体性をもった人はどんな行動も自由にできるという意味で、自由といえます。

いわば世界から何の影響も受けないわけです。

どんな環境にあっても、人は正しい選択をすることができます。

世界よりも自分。このあたりはキルケゴールから続く伝統といえるでしょう。

人間という実存

実存哲学は人間の哲学であるともいわれます。

前項のキルケゴールは、存在を「誰でもない、人や社会の意見に左右されない真理を探すわたし」としました。

人間(わたし)が中心である哲学、それが実存哲学です。

ドイツの思想家ヤスパースの考えにはそれが如実に表れています。

ヤスパースは「人間とは何か」を考え続けた人でした。

ヤスパースの考え方は古典的な二元論とは少し違います。

通常、二元論はものごとをふたつに分けて、そのどちらが優先かを考えていました。

ヤスパースは、どちらが先かではなく、「両方とも混在している」と考えたのです。

ヤスパースの考えでは、実存と本質はどちらかがどちらかに先立つものではなく、一緒に混じってひとりの人間の中にあるものということになります。

実存と本質はまた、主体と客体といいかえることもできます。

主体と客体とは、認識するものとされるもの、つまり自分と他人のことです。

実存と本質がひとりの人の中で混じり合って自分になっているように、自分と他者が何も隠すことなく本気で向き合い、ぶつかり合いながらも心から信頼しあっていくことが人生には必要と彼は説きます。

これを実存的まじわりといいます。

実存的まじわりによって人は困難を乗り越え、生きていくことができるのです。

人はひとりでは生きていけません。

ヤスパースの思想は、この複雑な社会で生きるわたしたちに大切なことを教えてくれます。

そのヤスパースと同世代で、同じドイツの思想家であるハイデガーも実存哲学の思想家です。

前の項で「存在(sein)」というドイツ語を「実在(Existenz)」とは違うものとしてご説明しました。

しかし、ハイデガーはseinにちょっと意味をプラスしたDaseinという言葉を重要視しています。

Daseinは日本語では「現存在」と訳されます。

ただの「存在」というわけではなさそうですね。

ハイデガーにとって、実存とはなんだったのでしょうか。

人は自分の意志で発生することはできません。

突然世界に投げ出され、その中で自分の存在とはなんだろう、本質とはなんだろうと悩んでいくものです。

ところで、始まりは自分の意志ではないにしても、終わりはどうでしょうか?

もちろん、人はできるだけ長生きしたいと願うものですが、自分は死なないと思っている人はいません。

人間はみんなどこかで終わりを知りながら限られた生を生きているのです。

ハイデガーはこの事実をおしすすめ、実存とは死を意識することによって意識できるものであるという結論に達します。

著書「存在と時間」で、ハイデガーは死を意識することが、自分という存在を知ることといっています。

人は自分の持ち時間を知ることで有意義に生きることができます。

終わりを意識することは諦念ではなく、自分の存在を知って前向きに生きる術なのです。

これがハイデガーの考える実存主義です。

まとめ

実存の意味から始まり、キルケゴールによる実存哲学の発見、そして今へと続く現代実存主義を概説しました。

ここでとりあげた思想家のうち、キルケゴールを除く現代実存主義の3人は、全員が世界大戦を経験した世代です。

実存主義とは、「人間が生きるということ」をメインテーマにする哲学。

それが世界大戦という未曽有の人災を体験した人々から生まれたということは、決して意味のないことではありません。

いっぽう、現代は情報過多の時代です。

戦中戦後の混乱期の中で正しさを探し求めた哲学者の知恵は、情報の海の中で自分を見失ってしまいそうになっているわたしたちにも必要なものです。

あふれる情報の中で自分の存在を確信するために、実存哲学は強力なツールとなります。

今を生きるわたしたちにとっても、実存哲学はよく効く薬なのです。

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