倫理学の指標トロッコ問題から「正しい行動」について考える。

人は誰でも、正しいことをしたいと望みます。

では、正しい行動とはどんな行動なのでしょうか?

いついかなる状況においても正しい行動をとることはできるのでしょうか?

これは、単純にみえて実はとても難しい問題です。

言葉でいうと簡単な「正しい」とは、本当はどんな意味をもっているのでしょうか。

トロッコ問題とは、そんな「正しい行動」について考えるためのひとつのロールモデルなのです。

世界的に有名なこのモデルを使って、正しいという言葉の意味を考えていきましょう。

トロッコ問題の歴史

路面電車の問題(通称トロッコ問題)は、1967年に倫理学者のフィリッパ・フットが発表した思考実験です。

思考実験とは、複雑な社会問題や実際には経験できない問題(たとえば政治学や犯罪学など)を単純なシチュエーションに置き換えて、わかりやすくしたもの。

いわば「たとえ話」として「あなたならどうする?」と問うものです。

思考実験はどれも興味深いものですが、とくにここで取り上げるトロッコ問題は、思考実験の中でも群を抜いてわかりやすく、それでいて一筋縄では解決できない優れものです。

この問題は発表された当時から大反響を呼び、さまざまなバリエーションが作られました。

それから半世紀が経過した現在でも、トロッコ問題は有名な思考実験として、また正解のない問いとして人々の関心を集め続けています。

トロッコ問題の概要

いちばん最初に考えらえたトロッコ問題は、次のようなストーリーになっています。

場面は、走行中のトロッコ(路面電車)のブレーキが故障して、停車できなくなってしまった車内。

あなたはこのトロッコの運転手です。

前方の線路では5人の作業員が作業中で、このままでは5人は電車に轢かれてしまいます。

一方、5人が作業している場所の手前には待避線へ続く切り替えポイントがあり、そちらでは1人の作業員が作業をしています。

運転手は、ハンドルを操作して待避線へ向かうことで、5人の命を救うことができますが、そうすることで待避線で作業をしていた1人の命を奪ってしまうことになります。

あなたが運転手だったら、どうしますか?

ハンドルを切ることによって5人の命を救うことができますが、そうすれば本来失われないはずだった何の罪もない1人の命が失われることになるのです。

ハンドルを切って5人の命を助けることは、正しいことだと思いますか?

正しいと思う人の意見

数の問題として考えれば、5人の人命が助かるほうが望ましい、という考え方です。

これは行動した結果だけを抽出して書いてみるとわかりやすくなります。

きわめてシンプルに、行動とその結果だけを文章で書いてみましょう。

選択のひとつは「1人の命を犠牲にして5人を助ける」。

もうひとつは「5人の命を犠牲にして1人を助ける」。

これだけみれば、どちらの行動をとるべきかははっきりしているように見えます。

実際にハーバード大学が行った5000人規模の調査では、9割近い人が、1人を犠牲にして5人の命を救った運転手の行動は「許されるものであった」と答えています(「正しい」ではなく「許される」という表現になっているのが微妙ではありますが……)。

この考え方は、哲学史的にいえば功利主義という意味でとらえることができます。

19世紀のイギリスの哲学者・ベンサムは「最大多数の最大幸福」という名言を残しました。

つまり幸せになる人がいちばん多い状態が、社会全体がいちばん幸せな状態であるということで、これを功利主義といいます。

功利主義の観点からいえば、幸せになる(=助かる)人が1人である状態よりも5人であるほうがよい、すなわち正しいということになります。

「最大多数」は「すべて」ではありません。

たくさんの人が幸せになったとしても、その陰には少数の不幸な人がいます。

すべての人が幸せになることが難しい場合は、数が多いほうを優先しよう、というのが功利主義の言い分です。

わかりやすい言い方でいえば「多数決になってしまうのは仕方がない」ということです。

トロッコ問題も同様です。

実感としては、この行動を選ぶ人の気持ちは「正しい」というよりも「仕方ない」というほうが近いでしょう。

6人全員が助かる道があれば、誰だってこんな選択肢を選んだりしません。

どちらかを選ばなければならないときは、よりたくさんの人が救われる道を選ぶべきである、という「ベストではないけれど、やむを得ない」選択なのです。

もうひとつ、数の問題のほかにも肯定派の根拠として挙げられるものがあります。

それは、中世の哲学者トマス・アクィナスが唱えた「二重結果の原則」です。

二重結果とは、ひとつの目的をもった行動に複数の結果が現れること。

よかれと思ってしたことが裏目に出てしまうなど、当初の善い目的がかえって悪の結果を招いてしまうことをいいます(逆に悪い目的でしたことが善い結果になってしまうこともありますが、その場合は単にラッキーということで倫理上の問題にはされません)。

この場合は「多くの人命を救いたい」というのが行動の目的であり、これは当然善い目的です。

しかし、善い目的で行われたこの行為は結果として「本当なら奪われるはずではなかった1人の命を奪う」という悪い結果を招いてしまいます。

こんなとき、この行動は「善い」「悪い」どちらなのでしょうか?

トマス・アクィナスは条件付きで「結果が悪いほうに転んだとしても、最初の目的が善であれば、その行動は善い行動である」といっています。

つまり、行動した結果1人が犠牲になってしまったけれど、それは結果がたまたまそうなってしまっただけで、行動自体は正しいということです。

このように、積極的に行動して5人を助けることを肯定する人には、しっかりとした哲学的な根拠があります。

しかし、だからといって1人の犠牲を出しておきながら「正しいことをした」と言い切れる人はそういないでしょう。

どうしても「ベストではなくベター」とちょっとひっかかりのある解答になってしまいます。

その理由を考えるのも、トロッコ問題の面白いところです。

正しくない

それでは、一般的には少数派に入ってしまう「そうすべきではなかった」派の人の意見はどうでしょう。

どこかに割り切れない箇所を残す肯定派の意見と違い、反対派の意見ははっきりしています。

人数は関係ない、5人の命を救うべく1人の命を奪うのは、あきらかに殺人であるというのが反対派の考え方です。

この意見を支持する人は、しばしば「運転手は神ではない」という言い方をします。

本来轢かれるはずではなかった1人の運命を意図的に捻じ曲げるのは、たとえ5人の命を救う目的であっても許されないはずです。

そもそも、命というのはかけがえのないもの、数で判断するのは正しいことではありません。

すべての人は生きる権利を有しています。

見ず知らずの他の人を助けるために犠牲になってくださいといわれたら、あなたならどう思いますか?

また、もしかしたら、犠牲になった1人は特別な人かもしれません。

たとえば、高名な外科医がボランティアで線路の補修作業に参加していたとしたらどうでしょう。

彼の命を奪うことは、彼が今後助けるはずだったたくさんの患者の命をも奪うことになります。

それは5人よりもはるかに多いでしょう。

トロッコの進路を変えなければ、つまり運命のままにしておけば、そのすべてが救われるのです。

かなり乱暴な言い方になりますが、運転手の行動は「よけいなおせっかい」だったのです。

1人と5人、どちらの命が重いのかは私たちには決められません。

そもそも人の命を量や質で判断するのは、許されることではないのです。

この場合、人が人の命を選ぶよりも運命の手にゆだねたほうが正しい、というのが反対派の意見ということになります。

でも、だからといって運命にまかせるというのは本当に正しいことなのでしょうか?

「そういう運命だから仕方ないよ」という言葉で、助けられるかもしれない命を見捨てることは正しい行動といえるのでしょうか。

それでは、恵まれない人のための募金も災害ボランティアも意味がなくなってしまいます。

結局のところ、運命論者も積極的に行動する肯定派と同じ罪を負うのではないでしょうか?

そもそも設問の意味がない

トロッコ問題に反対の立場をとる人の中には、「そんな単純化された問題には意味がない」という人もいます。

現実的ではないし、実際の意志決定の場面はそんなに単純なものではない、というのです。

また人の命を安易に思考実験に使うことに嫌悪を覚える人もいます。

トロッコ問題の本質は正しさを問うことですが、この問題が問いかけるのはそれだけではありません。

考えていく過程で、人間はそれほど単純なものではない、正しいか正しくないかで割り切れるようなものではない、と気付くのも大事なテーマです。

その意味から言えば、「答えたくない」「考えたくない」というのも、立派な答なのです。

トロッコ問題のバリエーション

たくさんの人たちの間で話題になったトロッコ問題には、そこから派生したバリエーションもたくさんあります。

たとえば、こんなものも。

暴走する路面電車という設定はそのままですが、今度は、あなたが線路をまたぐ橋の上にいて、そこから電車を見ているとしましょう。

そばには体の大きな男性がいます。

いま、路面電車が橋の下をくぐって、5人の作業員が作業している箇所に向かおうとしています。

もしあなたがそこにいる男性を橋の上から突き落としたら、男性は通過する路面電車にぶつかり、その衝撃で路面電車は止まるでしょう(物理的には不自然かもしれませんが、これはあくまで倫理を問う「たとえばなし」なので、ありうることとします)。

あなたはどうしますか?

トロッコ問題をより過酷な方向に推し進めたこの問題では、ほとんどの人が「できない」と答えています。

前問で、5人の命が1人の命よりも重いと判断してハンドルを切った人なら、ここでも1人の命より5人の命を優先して、男性を突き落とすと答えるのが合理的でしょう。

ところが、「1人の命を犠牲にして5人を助ける」という基本的なコンセプトは変わらないのに、ここでは比率が逆転して反対派が9割になっているのです。

人間が機械のように、数字だけを根拠にして判断するとしたら、こんな結果は出なかったでしょう。

このバリエーションは、人間は計算だけで割り切れない何かをもっているという興味深い事実を教えてくれます。

結びにかえて・トロッコ問題の正解

トロッコ問題の問題編と、その解答例をご紹介しました。

皆さんはどう感じたでしょうか?

1人を犠牲にして5人を助けるという行動に、賛成する人もいるでしょう。

また、反発を覚えた方もいるでしょう。

答えるのを拒否した人もいるかもしれません。

トロッコ問題の目的は正しい答をだすことではなく、何が正しい答なのかを考えること。

答は、答える人の数だけあるといってもいいのです。

あなたなりの答をみつけてください。

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