楽しく論理学を学ぶ。論理パズルでゲーム感覚で楽しむ論理学の世界。

近年「ロジカル・シンキング」という言葉をよく聞きます。

論理的に考えることは、仕事の効率をあげるためにも欠かせないスキルです。

でも、難解な論理学に真正面から取り組むのは、なかなか難しいこと。

そこで、論理パズルで学ぶというのはいかがでしょう。

本来記号で表す論理学にストーリーを与え、わかりやすいパズル形式にした論理パズルなら、ゲーム感覚で楽しく論理学のエッセンスにふれることができます。

以下では、世界的に有名な論理パズルをご紹介します。

頭を柔軟にして、気軽に挑戦してみましょう!

クレタ人のパラドックス

問い

「すべてのクレタ人は嘘つきである」とクレタ人がいった。

この発言は、正しい?それとも間違っている?

正しい。このロジックは、矛盾なく成り立つ。

解説

整理してみましょう。

まず前提は「クレタ人は嘘をつく」ということです。

ところが、それを語っているのがクレタ人(嘘つき)だとすると、この発言は間違いです。

ちなみに論理学では、正しいことを「真」、間違っていることを「偽」といいます。

「クレタ人は嘘をつく」が真であれば、嘘つきのクレタ人の発言である「クレタ人は嘘をつく」は偽でなければなりません。

そうすると(「クレタ人は嘘をつく」が嘘であるのだから)クレタ人は嘘をつかないということになります。

しかし、クレタ人が正直ならば、発言の内容は正しいことになり、やっぱりクレタ人は嘘つきだということになり……と、堂々めぐりしてしまいます。

クレタ人のパラドックスは、一見奇妙な論理にみえますが、解き方はシンプルです。

カギになる言葉は「部分否定」と「全否定」。

あることを否定するには、特定の部分だけを否定する「部分否定」と、文全体を否定する「全否定」があります。

それを踏まえて、もう一度クレタ人のパラドックスをみてみましょう。

嘘をつくということは、否定するということです。

それでは「すべてのクレタ人は嘘をつく」を否定形にするとどうなるでしょうか。

多くの方は、「すべてのクレタ人は(嘘をつかない)正直者」と思うのではないでしょうか。

これは文全体を否定する全否定で、間違いではありません。

でも、この文を矛盾なく成立させるには、部分否定で解釈することが必要です。

「すべてのクレタ人は嘘をつく」の部分否定は「すべてのクレタ人が嘘をつくというわけではない」になります。

これは「正直」とは似ているようでちょっと違います。

この場合、どんなクレタ人も真実を話すというわけではありません。

すべてのクレタ人が嘘つきということではないよ、嘘つきもいれば正直者もいるよ、といっているのです。

つまり、たまたま嘘つきだったクレタ人が、「クレタ人は嘘をつく」という嘘をついた、と解釈できます。

こう考えれば、この文は矛盾なく成立します。

論理学の世界には、基本的に「真(正しい)」と「偽(間違っている)」しかありません。

そのため、真偽を問う「嘘つき問題」は論理学の理解としてちょうどよく、さまざまな論理学者によってたくさんのバリエーションが作られています。

次項では、そのバリエーションのひとつをご紹介しましょう。

シェラザードの助命

問い

シェラザードは国王の妃です。

ところが、この国の王様は王妃を次々と処刑する非道な人でした。

処刑を控えた前日、何か望みはないかと訊かれたシェラザードは王にこんなお願いをしました。

「これから王様に『はい』か『いいえ』で答えられる質問をします。王様は真実だけを話すと約束してください」

王様が承知すると、シェラザードはひとつの質問をして、王が処刑を中止せざるを得ないようにしてしまいました。

さて、彼女はどんな質問をしたのでしょうか?

「王様は、わたしの命を助けるか、この質問に『いいえ』と答えるか、どちらか1つを行いますか?」

解説

この質問は、2つの条件のうち1つが成り立つ状況を確約するものです。

2つの条件とは「シェラザードの命を助ける」と「いいえと答える」です。

この2つの文章(論理学では「命題」といいます)のどちらかが正しく、どちらかが偽でなければなりません。

「はい」と答えた場合、「『いいえ』と答える」は自動的に偽になります。

はいと答えた時点で、それはもう真実ではなくなっているからです。

この答を選んだとき王はほかに選択肢がないので「シェラザードの命を助ける」を実行(=真実にする)しなければなりません。

それでは「いいえ」と答えたらどうなるでしょう。

王は「『いいえ』と答える」(真実)を選択しているのですから、「シェラザードの命を助ける」を実行する必要はありません。

ところが、「いいえ」と答えた時点で、王様は文を全否定しています。

「どちらか1つを行いますか?」という問いに対して「どちらも行わない」と答えてしまっているのです。

しかし、どちらも行わないというのは自己矛盾です。

なぜなら命題に「『いいえ』と答える」があるからです。

王が「いいえ」と答えたら、もうこの命題を実行してしまっていることになります。

「どちらも行わない」という選択肢は矛盾であり、不可能です。

よって、矛盾が生じないようにするためには、王は「はい」と答えてシェラザードの命を助けざるを得ないのです。

この問題は、形のうえでは「嘘つき問題」のバリエーションに属しますが、真実しかいえないことを考えるとむしろ「正直問題」といったほうがよさそうです。

とはいえ、意味するところは変わりません。

シェラザードの問いは、論理学者スマリヤンの著書「究極の論理パズル」で詳しく解説されています。

スマリヤンはこういった論理問題を「脅迫の論理」と名付けました。

脅迫というと言葉は悪いですが、つまり、一度条件を認めたら相手の思う通りの結果にならざるをえないという意味です。

論理パズルはとても面白いものですが、皆さんくれぐれも悪用はしないでくださいね。

現在のフランス国王は禿である

問い

「現在のフランス国王は禿である」。

この文は真?偽?

真でも偽でもない。

現在のフランス国王は存在しない。

解説

言語学者であり思想家でもあるバートランド・ラッセルが考えた問いです。

「Aさんは禿である」という文は、真として成立できます。

しかしこの場合「Aさん」にあたるものは「現在のフランス国王」です。

現在のフランスは共和制国家で、国を統治する王はいません。

だからこの文は真ではありえないわけです。

だからといって、偽ともいえません。

「(ある特定の)人は禿である」という文脈自体は真といえるからです。

日常言語で考えれば、この文は偽であるといえるでしょう(実際、提唱者のラッセルの考えも「偽」に寄っています)。

存在しないものについて語っているわけですから、当然です。

しかし論理学では、この文を真でも偽でもないととらえます。

現在のフランス国王が存在しないとしても、文は矛盾なく成り立っているからです。

実際、存在するものしか真として語れないのなら、わたしたちの言葉はずいぶん不自由になるでしょう。

この世界にはフィクションがたくさんあり、そこではある程度の矛盾も創作上の都合として受け入れられるからです。

言葉は、言葉だけで存在するものではなく、そこには語られる対象物があります。

たとえば「山」という言葉があったから山ができたわけではありません。

最初に名前のない山があって、それに人が名前をつけたときから、山は山になったのです。

このように言葉は事物に対応していますが、私たちは対象が実在しないものについても語ることができます。

実在のものに対応していない文は真なのでしょうか、偽なのでしょうか。

これは、多くの論理学者を悩ませてきた問題です。

この問題を単なるナンセンスという人もいますが、無意味な文と切り捨ててしまっては、それこそ意味がありません。

無意味とわかりつつも掘り下げることで、この問題は言葉の難しさや不思議さを教えてくれるのです。

もうひとつ、言葉の意味を考える問題をご紹介します。

この問題は「砂山のパラドックス」と呼ばれています。

砂山というのは皆さんご存知ですよね。

砂が積み上がって山になったものです。

では、この砂山から砂を少しとったらどうなるでしょう。

砂山は依然砂山のままです。

さらに、少しずつ砂をとっていっても、大きな砂山の姿は変わりません。

これを続けていって、そのうちに砂山の砂の最後の一粒になってしまったら?

その砂の一粒をも砂山ということができるのでしょうか?

違うとしたら、「砂山」はどの段階から「砂」になるのでしょうか?

この問題は、言葉がいかにあいまいであるかということを示しています。

この問題については、数学的な見地からの解決策など、アプローチの方法は研究されていますが、明快な答はまだありません。

皆さんもぜひ、自分なりの答をみつけてみてください。

アキレウスと亀

問い

「アキレウスは、足が速いことで知られる古代ギリシャの英雄です。

このアキレウスと、歩みの遅い亀が徒競走をすることになりました。

亀にはハンデとして、アキレウスよりもやや前にあるスタートラインからスタートすることが許されます。

彼らは同時にスタートしました。

ところが、いつまでたってもアキレウスは亀に追いつきません。

なぜなら、アキレウスが亀がいた場所に俊足でたどりついたとき、亀も遅いながらも少しは前に進んでいます。

アキレウスは亀がもといた場所にはすばやくたどりつけますが、そのとき亀はもうそこにはいません。

こうして、アキレウスが亀のいた場所に着くと、亀はそれより少しだけ先にいて……という状態が続き、アキレウスはいつまでも亀に追いつけないのです」

この話のようなことが、ありうるでしょうか?

実際にはありえないが、論理学ではありうる。

解説

これはゼノンのパラドックスといわれている問題です。

ゼノンは古代ギリシャの哲学者。

有名な哲学者ソクラテスと同時代人で、プラトンの著作にも顔を出しています。

ゼノンのパラドックスには、昔からたくさんの学者が言及してきました。

同じ時代に属するプラトンやアリストテレスから、スピノザやヘーゲルといった近代の哲学者たち、そして現代も多くの人が数千年の時を超えてこのパラドックスを論じています。

このパラドックスの論点は、単純に真か偽かということではありません。

もしも本当にアキレウスを亀が競争したら、アキレウスが(というか、普通の人でも)たちどころに亀を追い越してしまうことはわたしたちの誰もが知っています。

問題は、この非常識な話がもっともらしくみえてしまう、ということです。

アキレウスと亀の話は、理屈上は間違っていないように見えます。

「そんなわけないよ!」というのは簡単でも、「じゃあ、どうしてそんなわけないのか説明して」といわれると答に窮してしまう、厄介な問いなのです。

ひとつ知っておいていただきたいのは、ゼノンがこんな突拍子もないパラドックスを考え出した理由です。

ゼノンの師匠パルメニデスは、「世界は生成も変化もしない、普遍的なものである」という説を唱えていました。

しかし、「世界が生まれたときから不動のものなら、世界に住んでいるわたしたちだって好き勝手に動き回れるわけがない」と反論されてしまいます。

そこでゼノンは、運動は矛盾に満ちたパラドックス(まやかし)であるという説を作って、師匠の説を援護することにしました。

そこから生まれたのが、あの突拍子もないパラドックスです。

ちょっと不快な言い方をすれば、真偽は理屈のつけ方次第というところです。

なお、このパラドックスを「理論上でならありうる」という人もいます。

前項で登場したバートランド・ラッセルもアキレウスと亀のパラドックスを肯定したひとりです。

少し専門知識が必要なのでここでは詳しくふれませんが、興味のある方はぜひ参考書を探してみてください。

すっきりと否定したい方にはギルバート・ライルの著書「ジレンマ 日常言語の哲学」がオススメです。

平易かつ明快な論理で、思わず膝を叩くことうけあいです。

まとめ

あなたの論理性を刺激する論理パズル、いかがでしたか?

どれも、常識をくつがえすような興味深い問題です。

考えることは、それだけで楽しいこと。

論理学を難しいものと思わず、考える楽しみととらえていただければと思います。

ここでご紹介した論理パズルは、どれも論理学にのっとってはいますが、まだ論理学未満の「種」のようなものです。

この論理学の種を大事に育てていけば、いつかきっと大きな花が咲くはずです。

皆様がロジカル・シンキングを学ぶ一助になれれば幸いです。

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