ひとことで人を感動させ、前向きな気持ちにさせる名言。
それ自体がひとつの哲学であるともいえる名言は、これから哲学にふれる方には格好の入り口です。
自らの思想をひとことで表す名言は、いわば哲学者の決め台詞です。
読む側としても、ここさえおさえておけばという安心感があります。
哲学あるところに名言あり。
長い哲学の歴史の中から厳選した、5つの名言をご紹介します。
「汝自身を知れ」
紀元前の古代ギリシャ。
哲学者のソクラテスは、知人から「この町でいちばん賢いのはソクラテスである」といわれました。
自分より偉い哲学者は山ほどいると思っていたソクラテスが驚き、理由を尋ねると、知人は神からのお告げでそういわれたと答えました。
当時ソクラテスが暮らしていたアテナイ(現アテネ)では、人々はなにか知りたいことがあると神託所に行って神のお告げを聞くのが普通でした。
知人がデルポイ(デルフォイとも)にある神託所で「この町でいちばん賢い人は誰ですか」と訊いたところ「ソクラテスである」という答を得たというのです。
そういわれてもソクラテスにはなかなか信じられません。
そこで答を知るべく町の著名な哲学者に質問しに行きますが、誰にもわかりません。
中には怒り出す人もいます。
ソクラテスはこう結論づけます。
「わたしは何も知らないが、自分が何も知らないということは知っている。
だから、自分が何も知らないことを知らずに、自分が賢くて何でも知っているかのように振舞っている人よりも少し賢いのだ」
これが「無知の知」です。
冒頭に掲げた言葉は、デルポイの神託所の入り口に書かれていた言葉と伝えられています。
ソクラテスはこの言葉を愛し、生涯座右の銘にしました。
なにかを知りたいと思うことから、哲学は始まりました。
最初期の哲学は自然や数学がテーマになっています。
このころ、学問は今ように細かく分けられていなかったので、物理学も天文学も数学も全部「哲学」です。
その哲学が人間の外側(自然)よりも内側(倫理や理性)に向くようになったのが、ソクラテスという哲学者が登場して以降のことです。
ソクラテスは人間の内面をみつめ、そこに自然に勝る神秘を見出しました。
そんなソクラテスにぴったりの名言です。
「無用の用」
昔あるところに大きくて立派な木がありました。
ある人がこの木を見て、さぞかしよい材木になるだろうと試しに枝を切ってみると、木目が曲がっていて使えそうにありません。
しかも切ったときに有毒な汁が出て、肌がかぶれてしまいました。
近所の人に訊くと、この木は目立つ花も咲かず、実も苦くて食べられないとのことです。
まさに誰にも無用の木だったわけです。
この話をきいた荘子はいいました。
「誰も材木にしようと思わないから、切り倒されもせずこんなに大きく育ったのだ。
また枝を切ったり花を摘んだり実をもいだりもしないから、これまたよく育つ。
用がないことが、この木をこんなに大きく立派にしたのだ」
それではこの木は一体何の役に立つのか、と訊いた人に対して彼は答えました。
「人の役に立つ必要など、この木にはないのだ。
無理に何かに使おうとするより、その木陰で昼寝でもしたほうがいい」
人のために有用な木は、すぐに切り倒されてしまいます。
一見何の役にも立たないような木こそ、長く生きて大きく育つ木なのです。
人も同様で、政治や経済の世界で上手に立ち回って出世する者よりも、哲学という一見役に立たないような学問に従事している人のほうが幸せである、と荘子はいいます。
あくせく働いて結局切り倒されてしまうよりも、哲学という大きな木の下で昼寝でもしようよ、というわけです。
なんだかホッとするような言葉ですね。
荘子は古代中国の思想家です。
戦国春秋時代の人で、老子が開いた道家という学派に所属しました。
老子と荘子の思想体系を、まとめて老荘思想といいます。
老荘思想の特徴は、自然にさからわないこと。
悠久の歴史をもつ中国らしい、壮大なスケールを感じさせる思想です。
その意味で、小さなことにこだわらないこの言葉は、老荘思想の真骨頂といえます。
「われ思う、ゆえにわれあり」
哲学を学んだことがない方も、この言葉は知っていると思います。
原語の「コギト・エルゴ・スム」からとって、「コギト」または「デカルトのコギト」とも呼ばれています。
この名言を発したのは、フランスの哲学者デカルト。
近代哲学の父といわれるデカルトは、哲学だけでなく数学でも才能を発揮し、そのうえ医師免状までもっていたという多才な人です。
そんなデカルトの言葉「われ思う、ゆえにわれあり」は、究極的な世界の姿を表現したものです。
出発点は「疑う」ということでした。
真理を追い求める方法として、デカルトはすべてのものごとを「正しい」「間違っている」のどちらかにわけようとしました。
デカルトは論理学も得意だったので、「真」と「偽」しかない論理学の方法で世界をみてみようと思ったのです。
彼はまず、目に見える世界を疑いました。
誰もが知っているように人はしばしば見間違いをするので、見たものがそのまま正しいとは誰にもいえません。
ちょうどそのころ、デカルトと同時代人のガリレオが地動説を唱えて異端審問にかけられるという事件が起きました。
正しいはずの地動説が、科学的な根拠もない当時の常識で否定されたのです。
感覚でとらえた世界は間違っている、とデカルトは確信します。
五感を代表とするわたしたちの感覚は間違っており、感覚でとらえた世界も間違っています。
もしかしたら世界なんて最初から存在していないのかもしれません。
わたしたちがありもしない世界を勝手に想像しているだけなのかもしれません。
それでは、デカルトが得意とするもうひとつの分野、数学はどうでしょう。
1+1は確実に2になります。
これなら真といえるのではないでしょうか?
ところが、そこでもデカルトの疑いは止まりません。
理系の知識だって、「確実そうに見えている」だけで、本当は全然違うのかもしれません。
もしかしたらどこかに悪魔みたいなものがいて、そいつが人に幻を見せているのかもしれません。
このようにどんどん疑っていくこと、これを方法的懐疑といいます。
方法的懐疑を進めていった結果、デカルトはついに最終ゴールへたどり着きます。
それは、疑っている自分の存在。
いま周りのすべてを疑っている「わたし自身」の存在は疑うことはできません。
なぜなら「わたし」が存在しなければ、疑うこともできないからです。
この体も心もまやかしかもしれないけれど、疑いという行動を起こすもの(自我)は存在している、それがデカルトの得た結論でした。
そのことを示したのが「われ思う、ゆえにわれあり」なのです。
近代哲学はデカルトから始まったといわれています。
「世界の中に自分がいる」ではなく「自分が中心になって世界を認識している」と考えたところから、近代以降の哲学は生まれました。
デカルトによれば、わたしたちは自分を世界の中心にすべきなのです。
とはいえ、やりすぎて自己中なんていわれないように気をつけないといけませんが……。
「汝の意志の格率が常に普遍的法則に妥当するように行動せよ」
イマヌエル・カントは18世紀のドイツの哲学者です。
その著書は難解なことで有名で、同時代人さえ「カントを読むとどっと疲れる」といっていたほどです。
上掲の言葉は「実践理性批判」からの引用。
カント流のとても難しい言い方をしていますが、実はいっていることはとてもシンプルです。
カントは、人間がいい行いや悪い行いをする理由を真剣に考えました。
カントによれば、人間には生まれつき備わった道徳律があります。
これは時代や場所を問わずすべての人に共通の、普遍的な法則です。
道徳律に従っていれば人は正しいことをしているといえるのですが、実際には世の中にはいい人と悪い人がいて、誰もが心にもっているはずの道徳律はまちまちにしか働いていません。
なぜかというと、わたしたちには道徳律のほかに格率という行動原理があるからです。
格率は人が共通にもっているものではなく、自分が「自分はこうする」「自分にはこれがいい」といわば好みで決めていくものです。
道徳律のような普遍的原理と違って個人個人で違うものなので、格率にしたがっていると各人違う判断をして違う行動をすることになります。
そのため世の中には、いいことをする人や悪いことをする人がばらばらに存在することになってしまったのです。
この格率が普遍的法則と一致するようにすれば、人は自然にベストな選択をすることができます。
道徳律は「(結果が)こうなるから、こうする」とか「(理由が)こうだから、こうする」というものではありません。
いついかなる場合も無条件に「こうする」と言い切る絶対的なものなのです。
これを定言命法といいます。
「こうならばこうする」「こうだからこうする」という条件付きの行動原理は仮言命法といいます。
カントにいわせると、相対的なモラルなど存在しません。
善いことはどんな状況でも常に善いこと、悪いことはどんな理由でも悪いことなのです。
カント流にいえば、道徳は常に定言命法でなければいけないということです。
カントの有名な逸話に、毎日必ず決まった時間に散歩に行くので、町の人がカントを見て自分の時計を合わせた、という話があります。
カントは自分の生活をきっちりとルール化し、天候や来客などのイレギュラーな要素にも一切邪魔させなかったそうです。
いかなる状況でも変わらない善を試してみたかったのかもしれません。
「実存は本質に先立つ」
ヨーロッパの知識人にとって、20世紀は激動の時代でした。
そんな20世紀を代表する思想のひとつが実存主義です。
フランスの思想家サルトルは、自らの実存主義をさまざまな方法で表現しました。
実存とは、現実存在の略でざっくりとらえるなら「存在」といってもいいものです。
対する本質は、人が生まれながらにもっている意義のようなもので、目的と言い換えてもいいかもしれません。
昔は、人間はなにかの目的を付与されて生まれてくるものだと考えられていました。
本質が実存に先立っていたのです。
しかしサルトルは、実存は本質に先立つことを主張しました。
わたしたちは、世界の中にまず存在します。
そこには意味はありません。
ただ存在して、それから自分の目的(=本質)を探していくのです。
たとえばペーパーナイフは紙を切るという目的のもとに生まれる(=作られる)ものです。
人間はそうではありません。
人間は何の理由もなく存在し、何になるという目的は自分で決めることができます。
だから人間は、自由な存在であるといえるのです。
この考え方は多くの人たちの共感を得て、哲学だけでなく文学や芸術にも大きな影響を与えました。
実存主義は人間の学問であり、自由の哲学でもあります。
さらにいうならば、自分という実存がなにより重視される思想でもあります。
デカルト以来のフランス哲学の伝統は、自分が世界の中心であること。
その意味では、サルトルの実存主義はフランスでしか生まれなかったものなのでしょう。
かつて市民革命で自由を勝ち取り、今も自由という言葉をとても愛するフランスらしい哲学です。
まとめ
哲学者の思想を短く伝える名言をご紹介しました。
簡単にしかお伝えできませんでしたが、ここに挙げた哲学者たちは哲学史を代表する名著者ばかりです。
興味をおぼえた方は、ぜひ読んでみてください。