ドイツ観念論とは?近代哲学の代名詞ドイツ観念論の流れを初歩から解説

哲学を学ぶと、必ず出てくるのがドイツ観念論です。

ドイツ観念論は、18世紀末ごろから19世紀にかけて発生した思想のこと。

18世紀の大哲学者カントの思想を軸に、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの3人によって高められてきた、近代ドイツを代表する思想です。

ここでは、哲学史に欠かせないドイツ観念論について大づかみにご紹介します。

初めてドイツ観念論に触れる方にもわかりやすく、初歩から解説しました。

ドイツ観念論とは

まずは「観念論」という言葉から考えてみましょう。

観念とは簡単にいえば「イメージ」、道徳や正義といった目に見えないものを具体化するための言葉です。

ただ形がないだけに、とても扱いが難しいものです。

日常的には、中身のない茫漠とした議論を揶揄して「観念論」なんていったりしますね。

観念論は目に見える形がないものを扱うので、そのとらえかたは千差万別。

個人の間で大きな差が出てしまう、とても難しい学問なのです。

観念論は古代からありますが、とくにドイツ観念論といった場合、それはフィヒテからシェリング、ヘーゲルへと続く特定の思想を指します。

つまりドイツ観念論というのは、一連の流れの中で磨かれたひとつの思想のことなのです。

なお、研究者によってはほかにもいろいろな思想家を入れることもありますが、普通にドイツ観念論といったときは大体この3人を指しています。

いわば「ザ・ドイツ観念論」の3人です。

ただしこの3人のほかに、もう1人カントの存在を忘れることはできません。

近代思想を代表する思想家であるカントは、ドイツ観念論の中には入っていませんが間違いなくこの流れの源泉です。

ドイツ観念論を知るためには、まずカントの思想を知ることが不可欠です。

次項で簡単にカントの思想をみてみましょう。

カントの思想

数々の難解な著書で有名なイマヌエル・カントは、ドイツの北の端ケーニヒスベルグで生れた思想家です。

代表作「純粋理性批判」で思想のコペルニクス的転回を果たし、後世に大きな影響を与えました。

コペルニクスとは皆さんご存知の、地動説を唱えた天文学者です。

天と地がひっくりかえる、そのくらい根本的な変革を哲学界にもたらしたということがつまりコペルニクス的転回です。

そんなカントの思想は、世界を「目に見える世界」と「目に見えない世界」に分ける二元論です。

カントによればわたしたちは、「理性」という生まれ持ったシステムを使って個人がそれぞれに世界を感じ取っています。

それは世界本来の姿ではなく、あくまでも「個人がとらえた個人の世界」なので、人によって異なることは往々にしてあります。

それとは別に存在するのが目に見えない「本当の世界」です。

この世界を説明するのに、カントは「物自体」という言葉を用います。

目に見える物の形や性質は各個人がとらえた(つまり各人バラバラの)不確実なものでしかなく、本当の物の姿は見ることのできないいわば「物自体」である、というのです。

プラトンを読んだことがある方なら、イデア論を思い出していただけるとわかりやすくなるかもしれません。

こうして世界が2つに分かれているため、それをとらえる機構である理性も、カントの説では複数あります。

それが「理論理性」と「実践理性」です。

理論理性は物理的な意味での世界(「現象界」と呼ばれます)をとらえるためのツールです。

これに対して、もうひとつの理性「実践理性」は、愛や道徳といった目に見えないもの、つまり「物自体」をとらえることができます。

わたしたちが生まれながらにして良心や道徳をもっているのは、この実践理性のはたらきによるのです。

実践理性は生まれながらにもっているものですが、この点はカントの思想を特徴づける自由の概念と深くかかわっています。

わたしたちは、社会の中で生きる際いろいろな制限を受けています。

たとえば常識や世間体、あらゆる種類の権力、出世欲や金銭欲、最近でいうなら承認欲求のような欲望、もちろん法律に代表される諸規則もそのひとつです。

わたしたちはいつも誰かに何かを強制されながら生きているのです。

でも、自分の内なる理性の声に従って行動するとき、それは「誰かに何かを強制されている」状態ではありません。

自分の行動を自分の理性が決めるとき、わたしたちはどんなものからも完全に自由なのです。

それがカントの考える自由の概念です。

この考え方に多くの人が共感しました。

後年ドイツ観念論のスタートを切ることになるフィヒテも、その1人です。

カントからフィヒテへ

フィヒテはカントに遅れること38年、1762年に生まれました。

家が貧しかったので家庭教師の仕事をしながら苦労して学び、30代のときにカントの著書と出会って哲学に目覚めます。

それまで、フィヒテは決定論的世界観を信じていました。

これは、世界は最初から最後まで(過去から現在、未来まで)筋書きが決まっているという考え方です。

人間の自由意思を否定する、こういった考え方はスピノザやライプニッツなど大陸合理論の思想家たちにみられます。

しかし、カントはこの決定論的世界観を超えて、論理的に人間には自由意思があることを主張しました。

この思想にフィヒテは魅了されます。

のちにはカントに憧れるあまり、この郷土から絶対に出てこない大哲学者に会うためケーニヒスベルグへと旅立ってしまうほどでした。

しかし後先考えずに旅立ってしまったために到着時には無一文になり、結局憧れの人に借金を申し込む羽目になってしまった、というのは有名なエピソードです。

そこまでカントに心酔していたフィヒテですが、やがて彼の思想はカントへの絶対的な追随からその批判へと移っていきます。

前項でみてきたように、カントの思想では理性は現象界をとらえる「純粋理性(理論理性)」と物自体の世界をとらえる「実践理性」に分かれています。

しかし、同じ理性でありながら性質が全く違う、この2つの理性が互いにどう関係しているのか具体的には示されていません。

フィヒテはこの点に疑問をもちました。

この2つに分かれた理性(=世界)を統一することができたらカント哲学は完璧になるのでは、と彼は考えました。

フィヒテはカント哲学に体系的統一を与え、より完全な形にしたかったのです。

もっとも批判されたカントのほうではこれをあまりこころよく思わなかったのですが、それは余談です。

フィヒテは理論理性と実践理性はいわばひとつの理性の部分部分であると考えました。

フィヒテの考え方では、自我(=理性)はただひとつの自我であり、これを端的に示すのが「自己が自己を定立する」という言葉です。

無限の自我が有限の自我を乗り越えようとする、その働きが無限に続いていくことがすなわち自我の本質なのです。

フィヒテはカントの2つの世界を1つにまとめようとしました。

二元論から一元論へのこの流れは、次のシェリングへと引き継がれていくことになります。

フィヒテからシェリングへ

ドイツ観念論を代表する思想家の2人目はシェリングです。

幼いころから才能を発揮し、飛び級で大学に入学。

5歳年上のヘーゲルと出会い、ともに神学を学びました。

が、2人とも在学中は哲学を好んで読み、神学を学んだにもかかわらず結局聖職には就かず、思想家になりました。

シェリングは、フィヒテに比べると一回りほど年下になりますが、活動期と活動場所が重なっているのでほぼ同世代といっていい間柄です。

最初フィヒテの哲学に傾倒していましたが、そのうちに否定の立場になり、やがて2人は仲違いしてしまいました。

その流れはまるでフィヒテとカントの関係をそのままなぞるようで、とても興味深いものです。

そんなシェリングが提唱したのが同一哲学です。

同一とは文字通り「一」であること、すべてがひとつのものであるということです。

シェリングの思想では、フィヒテを含む哲学者たちが想定する「主観」や「客観」も実際には存在せず、存在は絶対的に「一」であるということになります。

絶対的な一とはなにかというと、それは自分自身です。

自我はすべてを含む無限的なものであり、その中では他者の存在さえも実は自分のうちにあるのです。

主観も客観も飛び越えたこの考え方は、超越論的観念論とも呼ばれます。

ここに至り、世界は完全に1つになりました。

フィヒテが目指した2つの世界の統一が、より強い形で(おそらくフィヒテが反感を覚えてしまうほど)表れたのがシェリングの同一哲学です。

ちなみにシェリングはドイツロマン派と呼ばれる文芸運動にもかかわっていました。

のちに理論理性と実践理性を統一するものとして「美」という概念を置いたところに、その影響をみることができます。

ヘーゲルというゴール

ドイツ観念論を知らない方でも、ヘーゲルの名前はおそらくご存じでしょう。

ヘーゲルはドイツ観念論の中ではカントに次ぐ著名人です。

今でも話題に上る弁証法や歴史哲学など、ヘーゲルが後世に残した影響もカントに劣らず多大なものです。

前項でも少し触れたように、ヘーゲルとシェリングとは同窓生で、卒業後も書簡を交わし合い、ともに活動していました。

しかし、二度あることは三度ある、というのもおかしいのですが、ヘーゲルもやはり最終的にはシェリングに批判的な目を向けることになります。

これまでフィヒテがカントに、シェリングがフィヒテにそうしたように。

ヘーゲルはシェリングの絶対的な一の考えを否定しました。

なぜならすべてが同じ「一」であるというのなら、わたしたち全員がクローンになってしまうからです。

そうするとわたしたち個々人を区別するのは何なのか、という問題になってしまいます。

ヘーゲルは、この問題を含めた諸問題の究極的な解決法を「弁証法により絶対知へと至ること」と定義します。

フィヒテは「知識学」という著書を著し、その中で絶対知を存在の本質としています。

つまりシェリングを否定しつつフィヒテの考え方に至ることで、ヘーゲルはある種の折衷案を提出したとみることもできます。

ここにおいてドイツ観念論は一つの結末を迎えることになります。

とはいえ、これは完成という意味ではありません。

ヘーゲルを超える偉大な頭脳が同時代に現れなかったというだけで、ヘーゲルの哲学にもまだまだ磨き上げる余地は残っているのです。

現代でもヘーゲルの人気は高く、研究者も世界中に存在しています。

その中から時を超えて「新・ドイツ観念論」が誕生する日がくるかもしれません。

まとめ

このようにドイツ観念論とは、具体的に何かテーマがあるというよりは「人同士のつながり」に近いものです。

最初フィヒテがカントを批判したところから始まり、そのフィヒテを今度はシェリングが批判し、最終的にはヘーゲルがシェリングを批判し……という形で続いた長い長いディスカッションの系譜のようなものなのです。

それこそが、ドイツ観念論を磨き上げ、哲学史に残るものにしてきたのです。

ここでご説明したことは、概説にすぎません。

ここからさらにステップアップして、ぜひ、原典を読んでみてください。

ドイツ観念論は決して気軽に読めるものではありませんが、ポイントを知っていれば理解はずっと楽になります。

彼らはいずれも個性的で奥深い思想をもっています。

また人によってはドイツ観念論の中に、信仰哲学者ヤコービやロマン派の文学者ヘルダーリンなどを入れることもあります。

こちらもぜひチェックしてみてください。

ここであげた「ザ・ドイツ観念論」的な著名人3人に劣らない独特の魅力を発見できます。

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